大きなルームキー |
うっすらと霧の漂う感じはティンプーと同じようで、ホテルの林はとても静かでした。朝食は、パンにコーヒーに目玉焼きといった一般的なものでした。ブータン人の朝食はどんなものなのでしょうか。昨晩の約束では、ガイドのタン氏がコテージまで迎えに来るということだったのですが、なぜか来ませんでした。
玄関前に行くと、ドライバーのチミー氏が車の準備をしていて、タン氏はどうやら風邪をひいているらしいと、話してくれました。
ようやくタン氏があらわれて、ホテルのチェックアウトの手続きをやっていました。部屋の荷物を片づけて、ホテル・オラタンを後にしました。ホテルの正面のロータリーにはBTCLのバスが止まっていましたが、団体客がいるわけではなく、やはり観光客は私一人だけだったようです。
Benjamin (=^o^=)
日本で立てた当初の予定では、タクツァン僧院へのハイキングをやることにしていました。ブータンを訪れるほとんどの旅行者が行くというタクツァンへのハイキングは、とても楽しみにしていたのですが、タン氏が風邪をひいてしまったので、やめることにしました。そういえば、昨日パロへ向かう車中でもタクツァンに行っても寺が遠くから見られるだけだよ、とタン氏が言っていました。まぁ、その寺が見たいから行くわけなのですが。もしかして、体調が悪かったからなのかも知れません。
パロの街をドゥゲ・ゾンに向けて北に走りました。舗装された道が続き、道の右側にキチュ・リゾートというホテルが、左側には小さな寺、キチュ・ラカンが見えてきました。しばらく進むと、道の右側に「タクツァン僧院(TAKTSANG GOMPA)」と書かれた看板が立っています。その先には、山があるだけですが、その中腹に岩場があり、そこに小さなタクツァン僧院が見えました。
ドゥゲ・ゾン |
ドゥゲ・ゾンは、内部までは入ることができませんが、小山の上のゾンまでの小道を歩き、ゾンの前庭まで行くことができます。チョモラリがドゥゲ・ゾンの入口からよく見えました。チレ・ラから見たときよりも数倍大きく見える感じでした。時間に余裕があれば、ここでゆっくりするのもいいかと思います。気候もよく、ゾンの脇には田んぼが階段状にたくさん続いています。「地球の歩き方」によるとここの田んぼはかつてTVで世界最高所の稲作地帯として紹介されたそうです。実際にはもう少し高いところもあるらしいのですが、高原の稲作地帯という感じのするところです。
ドゥゲ・ゾンの道標 |
Benjamin (=^o^=)
タクツァンの看板 |
タクツァン僧院 |
ドゥゲ・ゾンからパロへの道を戻り、タクツァン僧院の看板が立っている付近でバンを止めてもらいました。特にここが見晴らしのいいポイントというわけではありませんが、タクツァンのある崖が正面に見えました。まわりは民家と畑ばかりの場所です。今度は、タクツァンに登るぞ、との思いを抱きつつタクツァンのビューポイントを後にしました。この看板の北の方、数百メートル行ったところには、しゃれた感じのコーヒーショップがありましたが、シーズンオフなのかお休みのようでした。
タクツァン僧院はブータンの最高の聖地として有名です。伝説によれば、ブータンに仏教をもたらしたと言われるパドマ・サンバヴァ(サンスクリットで「蓮花から生まれた人」という意味)が虎に跨って降り立った地なのだそうです。パドマ・サンバヴァは、グル・リンポチエ(貴い師の意味)の八変化相のひとつなのだそうで、ブータンの祭として有名なツェチュ(月の十日の意味、グルにかかわる出来事が起こったのがみな十日であったという伝説に基づくようです)では、グル・リンポチエがブータンに仏教を布教する様子を描く仮面劇ともいえる舞踏なのだそうです。
しばらく進むと、パロまではまっすぐ緩やかな下り坂が続いていました。先を走っていた大型トラックから、トラックの振動にあわせて、一抱えほどもある丸い石がゴロゴロと道路に落ちて来ました。もし近づいて走っていたら大変なことになるところ。ドライバーのチミー氏が苦笑いしながら、道路のあちこちに散らばった大きな石をゆっくりとよけて走ってくれました。
Benjamin (=^o^=)
キチュ・ラカン |
チミー氏の後ろについて、小さな木戸の入口から入り、奥にある新堂へ進みました。堂への入口には木戸があり、チミー氏が僧と相談してくれ、中に入れていただけることになりました。寺の中は石畳の中庭になっていて、木の階段を上ってお堂に入りました。お堂に入る場合は、下足は脱ぎます。中に入り、チベット仏教での祈り方である五体投地をしました。チベットの五体投地は、まさに大地に体を投げ出すようにやるのだそうですが、ブータンのそれは深く体を下げるようなやり方です。聖水をいただき、ひとつひとつの像に祈りを捧げてきました。この旅行がようやく無事に終わりそうだな、という安心感でほっとしてきました。
境内の裏手には、火葬場がありました。ブータンでは、墓は作らず、火葬にしているそうです。
Benjamin (=^o^=)
キチュ・ラカンを後にして、昨日昼食を取ったのと同じレストランへ行き、昨日とほとんど同じメニューを食べました。エマダチを食べるのも慣れてきたなぁ、と思いました。ブータン人は、献立を毎日変えずに同じものを食べるそうです。現地に仕事で来ている人にとっては、単調な食事でちょっと大変かも知れません。
パロの民家 |
Benjamin (=^o^=)
ダショー・ニシオカ、西岡京治氏は、ブータンでもっとも有名な日本人です。
1964年にコロンボ計画の専門家として、西岡京治氏がブータンに派遣されました。
チベット語の話せる農業指導者という条件だったのだそうです。
赴任当時の苦労話と、当時のブータンについては、西岡京治、里子著「神秘の王国」(1978学研)という本に詳しく書かれています。
西岡氏は日本にブータンの文化を紹介することにも尽くされ、「神秘の王国」以前には「民族探検の旅 第3集」(1976年学研)に西岡京治氏により15ページ分の写真と解説があります。
農業資材 |
余談ですが、ブータンに入国した日本人は、1913年に多田等観師がチベットへの潜入ルートとしてブータンを通ったのが最初とされていますが、正式に入国したのは中尾佐助大阪府立大教授でした。この中尾氏は、「秘境ブータン」(1959年毎日新聞社、1971社会思想社現代教養文庫、未見)を著し、その後「ブータンの花」(1984年朝日新聞社)を西岡氏とともに書いています。
西岡氏に、1980年にはその功績に対して外国人として初めてダショーの称号が与えられています。1992年3月21日にティンプーにて亡くなられました。その当時の葬儀の様子については、石田孝夫氏の「ブータンに図書館をつくる」に詳しく書かれています。国をあげての葬儀がパロで執り行われたそうです。
この十年間に、ブータンと日本をつなぐ多くの方々がお亡くなりになっています。
ご冥福をお祈りいたします。
Benjamin (=^o^=)
ホテルまで3キロ |
ホテル・ドゥルック |
冷蔵庫がなぜかありましたが、入れたいというものはありませんでした。冷蔵庫の上に電源の安定器(スタビライザー)がありました。スイッチを入れてみると入力電圧が250ボルトを越えています。本来は240ボルトなのだと思います。計器がおかしいのか電源がおかしいのかはわかりませんが、石田孝夫氏の「ブータンに図書館をつくる」によれば時々高電圧がきて電球が切れてしまうのだそうで、電源の安定器は欠かせないのかも知れません。
ほっと一息入れてから、中庭でも撮ろうと思い、部屋を出たところで大失敗。ブータンではずっとオートロックではなかったので油断していました。恥ずかしながら、フロントまで行き、合い鍵で開けてもらいました。
Benjamin (=^o^=)
パロの商店にて |
パロ・ゾンの夕景 |
ホテルの部屋に戻り一息入れていると、タン氏が元気にやってきました。どうやら夕食は一緒に食べることになるみたいです。広い食堂に行き、タン氏の注文でカレーを3品ほど、ナンを食べました。ナンはティンプーのホテル・ドゥルックの方がいいかもという感じですが、カレーはなかなかマイルドな日本人好みの味だと思います。
パロにやってきて、ようやく気分的にも落ち着いてきた気がします。旅行者としてやってきて、パロは穏やかないい町というのは無責任な気もしますが、久しぶりになにもない、という気分が過ごせました。
Benjamin (=^o^=)