Bhutan flag Bhutan旅行記'95 …前 | 続く…


7日目 12月15日(金)
【Bhutan】ホテル・オラタンの朝

   
 
 

大きなルームキー

 
パロの2日目の朝です。明日は早朝にパロの空港からバンコク経由で日本に帰らなければいけませんから、実質最終日となりました。ちょっと寂しい気持ちです。

うっすらと霧の漂う感じはティンプーと同じようで、ホテルの林はとても静かでした。朝食は、パンにコーヒーに目玉焼きといった一般的なものでした。ブータン人の朝食はどんなものなのでしょうか。昨晩の約束では、ガイドのタン氏がコテージまで迎えに来るということだったのですが、なぜか来ませんでした。
玄関前に行くと、ドライバーのチミー氏が車の準備をしていて、タン氏はどうやら風邪をひいているらしいと、話してくれました。

ようやくタン氏があらわれて、ホテルのチェックアウトの手続きをやっていました。部屋の荷物を片づけて、ホテル・オラタンを後にしました。ホテルの正面のロータリーにはBTCLのバスが止まっていましたが、団体客がいるわけではなく、やはり観光客は私一人だけだったようです。

Benjamin (=^o^=)


【Bhutan】ドゥゲ・ゾンへ

日本で立てた当初の予定では、タクツァン僧院へのハイキングをやることにしていました。ブータンを訪れるほとんどの旅行者が行くというタクツァンへのハイキングは、とても楽しみにしていたのですが、タン氏が風邪をひいてしまったので、やめることにしました。そういえば、昨日パロへ向かう車中でもタクツァンに行っても寺が遠くから見られるだけだよ、とタン氏が言っていました。まぁ、その寺が見たいから行くわけなのですが。もしかして、体調が悪かったからなのかも知れません。

パロの街をドゥゲ・ゾンに向けて北に走りました。舗装された道が続き、道の右側にキチュ・リゾートというホテルが、左側には小さな寺、キチュ・ラカンが見えてきました。しばらく進むと、道の右側に「タクツァン僧院(TAKTSANG GOMPA)」と書かれた看板が立っています。その先には、山があるだけですが、その中腹に岩場があり、そこに小さなタクツァン僧院が見えました。

   
 
 

ドゥゲ・ゾン

 
パロの盆地の北、15キロほどのところにあるドゥゲ・ゾンは、シャブドゥン・ガワン・ナムゲルが1647年に建てたもので、ドゥゲ・ゾンという名前は「ドゥルック派の戦勝記念砦」という意味なのだそうです。残念ながら1951年にバターランプにより大火災が発生し、廃墟になりました。1985年には、崩壊を防ぐために屋根がかけられたそうで、その屋根は1914年に出版されたナショナル・ジオグラフィック誌に掲載されたドゥゲ・ゾンの最初の写真にそっくりなものなのだそうです。関係ないのですが、「ブータン自転車旅行」によれば、ナショナル・ジオグラフィックはブータンとトラブルを起こして入国禁止になっているそうです。民族問題の報道でも、不当な報道を行なった外国人ジャーナリストがいたために、報道関係者が入国する際には、入国の許可に際して神経質になっているそうです。

ドゥゲ・ゾンは、内部までは入ることができませんが、小山の上のゾンまでの小道を歩き、ゾンの前庭まで行くことができます。チョモラリがドゥゲ・ゾンの入口からよく見えました。チレ・ラから見たときよりも数倍大きく見える感じでした。時間に余裕があれば、ここでゆっくりするのもいいかと思います。気候もよく、ゾンの脇には田んぼが階段状にたくさん続いています。「地球の歩き方」によるとここの田んぼはかつてTVで世界最高所の稲作地帯として紹介されたそうです。実際にはもう少し高いところもあるらしいのですが、高原の稲作地帯という感じのするところです。

   
 
 

ドゥゲ・ゾンの道標

 
ドゥゲ・ゾンのところでパロから続いた舗装道路は終わっています。ロータリーのようになった広場の真ん中には道標が立っていて、「ドゥゲ・ゾン 0」と書かれています。つまりここがドゥゲ・ゾンということですね。反対側にはパロまでの距離が書かれていました。ヤクがゾンの近くで繋がれていました。まわりの農家の軒先に馬やブタがいたりして、のどかな雰囲気でした。

Benjamin (=^o^=)


【Bhutan】タクツァン僧院

   
 
 

タクツァンの看板

 
   
 
 

タクツァン僧院

 

ドゥゲ・ゾンからパロへの道を戻り、タクツァン僧院の看板が立っている付近でバンを止めてもらいました。特にここが見晴らしのいいポイントというわけではありませんが、タクツァンのある崖が正面に見えました。まわりは民家と畑ばかりの場所です。今度は、タクツァンに登るぞ、との思いを抱きつつタクツァンのビューポイントを後にしました。この看板の北の方、数百メートル行ったところには、しゃれた感じのコーヒーショップがありましたが、シーズンオフなのかお休みのようでした。
タクツァン僧院はブータンの最高の聖地として有名です。伝説によれば、ブータンに仏教をもたらしたと言われるパドマ・サンバヴァ(サンスクリットで「蓮花から生まれた人」という意味)が虎に跨って降り立った地なのだそうです。パドマ・サンバヴァは、グル・リンポチエ(貴い師の意味)の八変化相のひとつなのだそうで、ブータンの祭として有名なツェチュ(月の十日の意味、グルにかかわる出来事が起こったのがみな十日であったという伝説に基づくようです)では、グル・リンポチエがブータンに仏教を布教する様子を描く仮面劇ともいえる舞踏なのだそうです。

しばらく進むと、パロまではまっすぐ緩やかな下り坂が続いていました。先を走っていた大型トラックから、トラックの振動にあわせて、一抱えほどもある丸い石がゴロゴロと道路に落ちて来ました。もし近づいて走っていたら大変なことになるところ。ドライバーのチミー氏が苦笑いしながら、道路のあちこちに散らばった大きな石をゆっくりとよけて走ってくれました。

Benjamin (=^o^=)


【Bhutan】キチュ・ラカンへ詣でる

   
 
 

キチュ・ラカン

 
パロはティンプーほど観光するポイントは多くなく、これから向かうキチュ・ラカンという寺が最後になります。この寺は、チベットの建国の英主ソンツェン・ガンポ王が建てたとされる108の寺のうちのひとつで、ブムタン地方のジャンペ・ラカンとともに由緒ある寺です。7世紀の後半に建立されました。キチュ・ラカンが建てられたパロがチベットの仏教徒の地図に記されることになり、ブータンに仏教をもたらしたと言われるパドマ・サンバヴァ(グル・リンポチエ)がパロを訪れたのも、キチュ・ラカンに詣でるためなのだそうです。この寺の白壁に囲われた境内には、旧堂と新堂の2つの寺があります。NHK取材班の記した「遥かなるブータン」によれば、新堂は王家の皇太后が寄進した寺で、王家の招待を受けた客以外は入れないそうで、旧堂を取材した記録が残っています。

チミー氏の後ろについて、小さな木戸の入口から入り、奥にある新堂へ進みました。堂への入口には木戸があり、チミー氏が僧と相談してくれ、中に入れていただけることになりました。寺の中は石畳の中庭になっていて、木の階段を上ってお堂に入りました。お堂に入る場合は、下足は脱ぎます。中に入り、チベット仏教での祈り方である五体投地をしました。チベットの五体投地は、まさに大地に体を投げ出すようにやるのだそうですが、ブータンのそれは深く体を下げるようなやり方です。聖水をいただき、ひとつひとつの像に祈りを捧げてきました。この旅行がようやく無事に終わりそうだな、という安心感でほっとしてきました。

境内の裏手には、火葬場がありました。ブータンでは、墓は作らず、火葬にしているそうです。

Benjamin (=^o^=)


【Bhutan】パロの民家を見る

キチュ・ラカンを後にして、昨日昼食を取ったのと同じレストランへ行き、昨日とほとんど同じメニューを食べました。エマダチを食べるのも慣れてきたなぁ、と思いました。ブータン人は、献立を毎日変えずに同じものを食べるそうです。現地に仕事で来ている人にとっては、単調な食事でちょっと大変かも知れません。

   
 
 

パロの民家

 
観光のひとつとして、パロの民家を見せていただきました。パロの民家の多くは3階建ての立派なものです。
1階は牛馬などの家畜が飼われています。天井も高めで広くて恵まれている気がしました。2階が住居部分になっています。2階への階段は、丸太に斜めに切り込みを入れたもので、とても急でグラグラします。建物の中はちょっとログハウス風な雰囲気。3階は物置になっています。
一家の奥さんが台所から出てきて迎えてくれました。住居の中心に台所があり、かまどがあります。2階にかまどがある、というのはちょっと変わった感じがしました。建物の一番奥の部屋が仏間になっています。10畳以上の広めの部屋に立派な仏壇が備えられています。自家醸造の酒、アラを少しだけいただきました。日本酒系の透明ですっきりした酒です。このお宅の主人は大工なのだそうで、大阪の花と緑の万博のブータン館をはじめ、何度か来日されたことがあるのだそうです。仏間には、ブータンにつくした日本人、ダショー・ニシオカとともに写っている写真が貼ってありました。

Benjamin (=^o^=)


【Bhutan】ボンデ・ファーム

ダショー・ニシオカ、西岡京治氏は、ブータンでもっとも有名な日本人です。
1964年にコロンボ計画の専門家として、西岡京治氏がブータンに派遣されました。
チベット語の話せる農業指導者という条件だったのだそうです。
赴任当時の苦労話と、当時のブータンについては、西岡京治、里子著「神秘の王国」(1978学研)という本に詳しく書かれています。

西岡氏は日本にブータンの文化を紹介することにも尽くされ、「神秘の王国」以前には「民族探検の旅 第3集」(1976年学研)に西岡京治氏により15ページ分の写真と解説があります。

   
 
 

農業資材

 
その西岡氏のブータンでの農業指導の拠点となっているのが、パロのボンデ・ファームです。パロの谷の下流側にある農場で、機械化や、品種改良などをやっているそうです。今回は、ボンデ・ファームの敷地の中を一回り見学させてもらいました。ちなみに、「ボンデ」とは「上質の米」という意味なのだそうです。

余談ですが、ブータンに入国した日本人は、1913年に多田等観師がチベットへの潜入ルートとしてブータンを通ったのが最初とされていますが、正式に入国したのは中尾佐助大阪府立大教授でした。この中尾氏は、「秘境ブータン」(1959年毎日新聞社、1971社会思想社現代教養文庫、未見)を著し、その後「ブータンの花」(1984年朝日新聞社)を西岡氏とともに書いています。

西岡氏に、1980年にはその功績に対して外国人として初めてダショーの称号が与えられています。1992年3月21日にティンプーにて亡くなられました。その当時の葬儀の様子については、石田孝夫氏の「ブータンに図書館をつくる」に詳しく書かれています。国をあげての葬儀がパロで執り行われたそうです。

この十年間に、ブータンと日本をつなぐ多くの方々がお亡くなりになっています。

ご冥福をお祈りいたします。

Benjamin (=^o^=)


【Bhutan】パロのホテル・ドゥルック

   
 
 

ホテルまで3キロ

 
ボンデ・ファームをまわってもまだ昼過ぎでしたが、この後はフリータイムにし てもらうことにして、今日の宿泊先であるホテル・ドゥルックへ向かいました。 空港の南側まで4キロ以上の道のりを遠回りして行きます。直線距離では大した ことはないのですが、パロは川に近いところはほとんど田んぼになっているので、 道は山沿いのところを通っているのです。空港の南端が三叉路になっていて、左 に行くと空港のターミナル、右に行くとホテルです。「HOTEL DRUK 3KM」と書か れたきれいな道標が立っていました。

   
 
 

ホテル・ドゥルック

 
空港の脇の道をずっと進み、川に一旦出てから山の中に向かって登るとホテル・ドゥルックがあります。こざっぱりとしたいい感じのホテルです。建物はモダンな感じで中庭もあります。私の部屋は谷がよく見える3階の中央でした。
ホテルの部屋のバルコニーからパロ・ゾンも半分ほどですが、見ることができます。ホテル・ドゥルックの部屋のうちでも眺めがいい部屋でした。なお、部屋そのものは、特になにもなくて、あえて順位をつけると、ブータンで泊まった中では一番悪かったかも知れません。

冷蔵庫がなぜかありましたが、入れたいというものはありませんでした。冷蔵庫の上に電源の安定器(スタビライザー)がありました。スイッチを入れてみると入力電圧が250ボルトを越えています。本来は240ボルトなのだと思います。計器がおかしいのか電源がおかしいのかはわかりませんが、石田孝夫氏の「ブータンに図書館をつくる」によれば時々高電圧がきて電球が切れてしまうのだそうで、電源の安定器は欠かせないのかも知れません。

ほっと一息入れてから、中庭でも撮ろうと思い、部屋を出たところで大失敗。ブータンではずっとオートロックではなかったので油断していました。恥ずかしながら、フロントまで行き、合い鍵で開けてもらいました。

Benjamin (=^o^=)


【Bhutan】和やかなパロの午後

   
 
 

パロの商店にて

 
ホテル・ドゥルックからパロの町まで歩けそうな感じで、時刻もまだ3時頃。余裕があるので歩いてパロの町まで出かけることにしました。行きは急坂を下って10分弱、パロ・チュに出るとあとはゾンまで15分足らずです。ゾンの手前からおじいさんと全く通じない会話をしながらパロの町まで一緒に歩いていきました。このおじいさんはパロの広場の商店の方で、店にはいるとミカンを出してくれました。しばらくビデオを撮ったり、店に出入りする人を眺めていました。撮ったものを後で送って欲しいと言われたので、郵便で送らないといけないなぁ。和やかなパロの午後を過ごさせていただきました。

   
 
 

パロ・ゾンの夕景

 
夕暮れも近づいてきたので、店の人にお別れをしてパロ・ゾンへ向かいました。ゾンの脇のデヤンカ広場に座って眺めていると、ドゥルック・エアー機がパロの空港に降りてきました。乗っているときには山にぶつかりそうな感じがしましたが、こうしてみていると小さな機体はとても安定して着陸体制に入っているようでした。広場にたむろしていたゾンの青年僧と話をしてから、夕暮れのパロを後にしてホテル・ドゥルックに戻りました。ホテルへの坂を上っている途中ですっかり日も暮れて辺りは真っ暗になりました。振り返るとパロの街灯がパラパラと見えました。ティンプーと比べるとパロさえも明かりは少なく、静かな街です。

ホテルの部屋に戻り一息入れていると、タン氏が元気にやってきました。どうやら夕食は一緒に食べることになるみたいです。広い食堂に行き、タン氏の注文でカレーを3品ほど、ナンを食べました。ナンはティンプーのホテル・ドゥルックの方がいいかもという感じですが、カレーはなかなかマイルドな日本人好みの味だと思います。

パロにやってきて、ようやく気分的にも落ち着いてきた気がします。旅行者としてやってきて、パロは穏やかないい町というのは無責任な気もしますが、久しぶりになにもない、という気分が過ごせました。

Benjamin (=^o^=)



…前 | 続く…

Copyright (C)1996-1997 Benjamin. All rights reserved.